甲府地方裁判所 昭和38年(ワ)193号 判決 1966年2月15日
原告 深沢政寿
被告 国 外一名
訴訟代理人 荒井真治 外四名
主文
被告両名は原告に対し各自金三〇万円およびこれに対する昭和三六年六月二四日より完済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は被告両名の負担とする。
この判決は原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。
事 実 <省略>
理由
一、原告が昭和三六年五月一二日より坐骨神経痛の治療のため国立甲府病院にて同院の外科医長である被告高石より左右臀部に交互に週二回合計一二回の「イルガピリン」の筋肉注射を受けて来たことは当事者双方に争いがない。
<証拠省略>によると、昭和三六年六月二三日午前一一時三〇分ごろ原告は左臀部に第一三回目の「イルガピリン」三CC、一本の注射を受け、直ちに寝台より起き上り外科診療室より出ようとしたところ左脚膝関節より下方爪先までにわかに疼痛と激しい痺れを感じ、左足首関節が自由を失い歩行困難となつたことが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。
しかして、原告が翌六月二四日より低周波電気治療を受け、さらに同年一〇月九日東京の厚生中央病院において神経剥離手術を受けたがその効果も現れないままに、ふたたび被告高石により電気治療、内服薬服用などの治療を受けたが依然効果なく、結局原告は右イルガピリン注射により左腓骨神経がマヒしてしまつたことは当事者間に争いがない。
しかして、<証拠省略>によると、原告は前示神経マヒの結果左足首関節の背屈運動が不可能になり知覚を喪失し、正常の歩行は不能になり、下駄、草履の着用は不能、足関節に補助具を用いてようやく跛行するという状態になつてしまい、もはや治療の方法がないことが認められる。原告は左脛骨神経にもマヒが生じた旨主張するが、右主張を認めるに足る証拠はなく、かえつて証人津山直一の証言および被告高石本人尋問の結果(第一回)によると脛骨神経マヒは生じていないことが認められる。また原告は左足関節の外転運動ができなくなつた旨主張するが、右主張に沿う前掲甲第一号証は、足関節には外転運動というものは存在しないとの被告高石本人尋問の結果(第一回)に照したやすく措信しがたく、他に右主張を認めるに足る証拠はない。
二、そこで原告の右のごとき神経マヒ発生につき被告高石に過失があつたかどうかにつき考察する。
(一) 本件注射に際しては原告主張(一)ないし(四)のごとき注意がなさるべきことは当事者間に争いのないところ、<証拠省略>によれば、先ず「イルガピリン」の注射に際して、右争のない注意事項を遵守し、注射部位として臀部上外方四分の一を選び、注射針が筋肉層内に止まるよう適当な深度をとり、針の刺入方向を充分に上外方に向けておくなど注入された薬液が神経部位に接近しないように技術上の注意をした上で注射を行い、かつ注射後の安静を保たせれば本件のような故事は通常生じないものであり、医師としては右の措置をとるべき義務があるものと認められる。
(二) 被告らは注射後の安静はイルガピリンが心臓に反応することがあるのでその点を顧慮したためと、薬液の効果を充分にならしめるため急激な運動をさけるために要求されるもので神経マヒの結果発生とは関係ないものであると主張するが、証人津山直一、同飯倉衛の各証言によれば、注射後安静を保たずにすぐ起き上り、運動をすると薬液が予想外の所に流れ込むことがあること、そして本件のごときイルガピリン注射の場合、たとい注射の部位が正しくてもその後の安静をとらないと薬液が筋肉と筋肉の間に流れ込んで神経に影響をおよぼすことがあることが認められるのであつて、注射後の安静が神経マヒとは無関係であるとの被告らの主張は採用できない。
そこで本件注射について注射後の安静についてみるに、原告本人尋問の結果(第一、二回)によると、被告高石は原告に注射後しばらく安静を保つ旨指示したことは一度もないことが認められるので、少くとも被告高石にこの点に関する配慮が欠けていたことは明らかである。
ただ多くの患者を限られた設備および時間の間に診療しなければならない現実に照して、実際注射薬の効能書にあるように一五分ないし二〇分の安静を保たしめることは不可能とまでは言えなくも困難であることは想像に難くないところであり、また、事実その通りであることは証人津山直一の証言により明らかであるが、さりとて万が一発生するかも知れない事故に備えて出来るだけの注意を払う義務は医師として当然これを負うべく、特にその作用の強烈であることが知られているイルガピリンの注射をする本件の場合においては注射後の安静を保たせることを医師に要求することは必ずしも厳しすぎるものとは言えないものである。
(三) 次に、被告らは薬液が筋肉層間の結締織に注入された場合は本件のような事故が生ずることがあり、本件はまさにその場合に当るところ、注射針の尖が筋肉層内にあるかあるいは筋肉層間の結締織内にあるかは判別不能であるから注射針が筋肉層内に止るよう適当な深度をとり結締織に薬液が入らないように注射することは不可能であり、従つて本件は不可抗力による事故であると主張する。よつてこれにつき判断するに、なるほど<証拠省略>によれば本件注射の薬物である高濃度ピリン剤は散らばると薄くなつてそれ程組織を障害しないが、一ケ所に高濃度のままで溜ると障害を起すこと、薬液が筋肉内に注射されれば散らばるものであるが、筋肉層と筋肉層の間の隙間すなわち結締織に入ると薬液が散らばらずに溜つたり、ある方向にまとまつて流れ出ることがあり得、意外に遠くまで到達することがあること、そしてその流出方向に神経がある場合にはたといその神経から充分離れた所に注射しても薬液が神経に達し、それを犯すことがありうること、しかし、このようなことは注射針の尖が筋肉層間の結締織に止り、そこに薬液が注入される場合にのみ起りうることで、注射針の尖がこのように結締織に止るということは極めて稀のことであること、などが認められ、他に右認定を左右する証拠はない。
そこで本件薬液が結締織に注入されたか否かの点につき審案するに、証人津山直一の証言によると右証人が昭和三六年一〇月九日厚生中央病院にて原告の神経外瘢痕剥離手術をした結果によると、坐骨神経が骨盤から出てくる部分よりやや下の所、すなわち坐骨孔から出て来て太モモのうしろへ移る辺において腓骨神経の周囲に固い瘢痕組織(高濃度ピリン剤による障害の結果生じた固い硬結)が認められ、腓骨神経自体も三-四センチに亘つてかなり瘢痕化していたこと、また、臀部の上外方から薬液が流下して来たような痕跡が臨床的にうかがわれたこと、さらに証人がその手術の際原告から病歴を聴取したところによると、昭和三六年六月二三日に臀部左側に注射されて四、五分たつてから左膝がしびれ出し、七、八分後からは腓骨神経支配領域の筋肉を動かし得なくなつたということであつたので、証人は神経から大分離れたところに注入された薬物が段々しみ通つて神経の周囲に流れ込み、そこに溜つたのだろうと考えたことが認められる。
以上認定の事実より考えれば、被告ら主張のごとく本件注射により薬液が筋肉層間の結締織に流れ込んだものと認めるを相当とし、他に右認定を左右するに足る証拠はない。
しからば右のように薬液が結締織に流れ込むことを防ぐのは、はたして被告らが主張するように不可能であろうか。なるほど、証人津山直一、同飯倉衛の各証言によれば注射針の尖が筋肉層内にあるか、あるいは筋肉層間の結締織内にあるかなどということは到底外からは判別できないことが認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。しかしながら、<証拠省略>および弁論の全趣旨によれば、イルガピリン注射の部位とされる臀筋の筋肉層の厚みはその間にある結締織の厚みに較べて数倍ないし十数倍もあるものであることが認められるのであり、そうとすれば刺入された注射針の尖が筋肉層内にあるかあるいは結締織内にあるかということは判らないにしても、刺入に際して注射針の尖を結締織内またはその附近に止めないように針の深さを適当に調整することは不可能のこととは認められない。
被告らは臀筋の厚さは患者の個体差により、また臀筋の部位により異るので具体的に注射箇所においてどの程度の厚さをもつかは一、一、識別できない旨主張するが、なるほど個体差および臀筋の部位により具体的には厚さに差異はあろうが、その差異も一定の範囲内に止るものであり、人体構造に専門知識を有している医師としては当然その具体的条件より当該注射箇所の臀筋の厚さについての一応の推測をなしうるはずであり、その推測の範囲で結締織を避けるように注射針の深度を調整することは可能であり、かつそのようにすべき義務が医師に要求されるものと言わねばならない。さらに、筋肉層内に注入された薬液が注射後の運動により結締織内に流れ込むことも当然予想できるのであるから、その点をも慮つてこれを防ぐために注射後の安静を保たせる配慮も医師としては当然になすべきであつたのに、その点を欠いていたことは前に判示した通りである。結局注射に際してその針の深さを適当に加減し、また注射後の安静を保たせることにより、薬液が結締織内に流れ込むことを防ぐことは医師として不可能ではなかつたと認められ、右認定を左右するに足る証拠はないのであるからこの点に関する被告らの主張は採用できず、被告高石は医師として本件注射に際し、右のような点に留意して不測の事故が生じないよう万全の手段を講ずべき義務があつたものと言わなければならない。
よつて被告の右抗争はたやすく肯認できない。
三、以上認定判示してきたとおりであり、本件のような神経マヒ発生予防のためには医師は注射を行うに際して安全部以外には注射しないように、また安全部位内に注射したとしても注射針の尖が結締織内にとまらないように深度を適当にとり、また注射針の方向が内側すなわち神経のある方向を向かないようにし、かつ薬液が予想しないところへ流れ込まないように注射後の安静を保つよう注意すべきであり、かかる注意を尽せばその事故発生は避けえたものと言わねばならないものであるところ、本件事故は被告高石の前示認定のような注射上の注意、特に注射針の深度に対する配慮を欠き、かつ前示のごとき稀有の事例に遭遇したにもかかわらず、これに備えての注射後の安静が保たれていなかつたことに由来するものと認むべく、この点において被告高石の過失があるものと言われねばならない。
よつて原告主張のその余の点につき判断するまでもなく本件神経マヒ発生につき被告高石に医師として過失があつたものと認められるから(被告高石及びその使用主たることに争のない被告国は、他に特段の主張のない以上、原告の蒙つた損害について賠償する義務がある。
四、そこで原告の受けた苦痛に対する慰藉料につき考えるに、原告の経歴、職業がその主張のごときものであることは当事間に争いがなく、前に認定したとおりの原告の蒙つた傷害の部位程度、特に補助具を用いてやつと歩ける程度にしかならない後遺症その他本件に顕われた一切の事情を勘案し、原告の肉体的精神的苦痛は金四〇万円の支払を受けることにより慰藉されるものと認めるを相当とすべきである。
そして、被告高石はすでにそのうち金一〇万円を原告に支払つていることが原告の主張により明らかであるので残余の金三〇万円を原告に支払うべく、また、被告国は被告高石の使用者であることは当事者間に争いがないので本件損害賠償につき使用者としての責任を負うべく、右金三〇万円およびこれに対する損害賠償義務発生の日の翌日たる昭和三六年六月二四日より支払済に至るまで民事法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。
五、よつて原告の本訴請求は右認定の限度において理由があると認めてこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却すべく、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九二条但書、第八九条、第九三条一項を、仮執行の宣言について同法第一九六条一項をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 小河八十次 藪田康雄 七沢章)